記者会見は5月16日、朝8時半からのカンヌ映画祭正式上映第1回目が大好評で終わって直後の11時頃から開かれた。出席は、リヴェット、ジャンヌ・バリバール、マリアンヌ・バスレール、セルジオ・カステリット、ブリュノ・トデスキーニ、プロデューサーのマルティーヌ・マリニャクの6人で、司会はアンリ・ベア。会見は楽しさと活気にあふれ、52分にわたって行なわれた。以下はリヴェットの発言部分の抜粋。より詳しい、俳優も加わった会見の模様(抜粋)は劇場販売プログラムに掲載される予定。


通常の映画は1時間半から2時間ですが、あなたやアンゲロプロスのような作家の作品は通常より長いですよね。(リヴェット、質問の意図を察知して、<肺活量、肺活量>とジョークのアクション。)第2に、パリです。あなたは『パリはわれらのもの』以来しばしばパリを舞台に作品を撮っておられます。他の監督もパリを撮るが、たいてい単なる舞台でしかない。なのにあなたの場合、パリに対する愛情がこめられていて、まるで出演者の一員かと思うくらいです。こういう意見をどう思われますか。


たいへん嬉しいお世辞です。パリが出演者として、人間ではもちろんないけれども、古典劇での合唱者のように登場しているとしたら、私としてはたいへん嬉しい。上映時間のご質問のほうは、つまらない答えしかできません。昔から果てしない問題で、サイレント映画の時代には1本の映画は今よりもとても長かったわけです。それが1時間半というノルマのような長さに定まったのはトーキー以後のことですが、それでも、1時間半の本編映画の前に、いわゆる“セリーB(添え物)”の1時間くらいの別な劇映画があり、さらにその前にニュース映画、アニメ映画があって、1回の上映は4時間くらいあった。そんなすべてを1本の映画にもちこんだらどうなるか、私の場合は、そうしたニュース映画やアニメ映画や添え物の劇映画を全部、本編に入れていると思ってもらえればいいのですがね。当然、1本の作品が4時間くらいになるわけで(笑)。

  

戯曲が2つ出てきますが、ゴルドーニの戯曲は実在するんですか?


いいえ。・・・存在するけれども、ウーゴが持ち去ったから今はもう存在しません(笑)。いやいや、あれは想像上の戯曲です。ピランデッロの方は、これは実在しますよ。私がまだ漠然としたアイデアの状態でセルジオと初めて会った時に、イタリアから劇団がパリにくるんだが上演する戯曲の作者は誰がいいだろうと相談をもちかけたら、セルジオはピランデッロを考え、私とまったく同じだった。しかも、戯曲は<あなたのお望みのまま>(未知の女)ということまで、はっきり同じだった。主人公の“未知の女”は、外国人であってもいいわけで、イタリア語に多少の外国語なまりがあっても構わない、という利点まで考えたりして。私自身イタリア語がそこまで聞き分けられないのですが、ジャンヌは舞台の場面にも打ち込んでやってくれて、彼女のイタリア語は完璧だと思いますよ。

とにかく、「恋ごころ」の撮影と編集の段階で、漠然とですが、思っていたことは、30年前の『狂気の愛』でのラシーヌの《アンドロマク》についても同様でしたが、戯曲の物語と映画の物語が直接に関連しあうのは避けたいと思いました。下品なことですからね。もとの戯曲そのものにも命があるわけですから。

  

ピランデッロやゴルドーニが絶妙にとけこんでいるのに対して、ハイデガーはとてもコミックに登場していますね。退屈な哲学者を選ぶのなら他にいっぱい選択があったでしょうに、なぜハイデガーを?


選択の余地なしに最初からハイデガー。唯一無二の攻撃目標、標的でした。ボニゼールと一緒に、マルティン・ハイデガーさんにはたっぷり楽しませてもらいましたが、彼は重要な役どころをつとめてくれたと思います。

  

(俳優との仕事ぶりにマイク・リーに共通するところがあると思うかという質問が英語で始まり、まわりから同時通訳用のイヤフォンをつけるようにすすめられたリヴェット、イヤフォンをつけるが、コードの根の部分をあごの下でなく頭の上に持っていくので、宇宙人のような珍妙なスタイルになる。本人はいたって大マジメ。質問者、笑いで続けられなくなり、場内も爆笑・・・。)第2の質問として、ヨーロッパの各国の映画がどんどん衰退している中で、フランス映画はまだポジションを保っていますが、その点どう思われますか。


フランス映画の場合には、他の国々に比べて、50年前から映画を保護する政策が、アンドレ・マルローやジャック・ラング、あるいはそれ以前の人々の政策が続いてきたこともあって生き延びているという面が確かにあると思います。文学や美術にしても同じだと思いますが、ある国の芸術が栄えるためには、量の面で多くの作品が輩出される必要があります。映画の場合は資金的な背景が不可欠です。1913-14年ごろにはデンマーク映画が世界でいちばんすぐれていたわけですが、その背景にはデンマークの映画産業が当時世界で最も栄えていたという事実があるわけです。そのあとドイツ映画が栄え、次いで、現在にいたるアメリカ映画の隆盛がくるわけですが、1913年頃は、アメリカ映画はデンマーク映画に比べても、あるいはスウェーデン映画に比べても、たいした存在ではなかったのです。

また、数多くの映画が作られれば、一種の競争意識が生じて、いい作品もその中から出てくるものなのです。われわれが映画を作り始めたころも同じでした。互いにいい意味の競争意識があって作りあい、私の場合は、自分の仲間がすばらしい映画を作ることがなによりも嬉しかったし、ゴダールや、シャブロルや、名前を挙げていくときりがないが、彼らがすばらしい作品を作ったのを見て誰よりも嬉しかった。

それに、フランス映画と他のヨーロッパの国々との比較は、産業的な面からの考察も必要だが、別な面から言えば、われわれヌーヴェル・ヴァーグの監督はみんなシネマテークから育ったことが大きいですね。アンリ・ラングロワがわれわれの世代に巨大な役割を果たしてくれて、われわれはラングロワのシネマテークで映画を学んだ。彼のおかげで、グリフィスも、ムルナウも、ドフジェンコも、とても名を挙げきれないが、サイレント時代や30年代の作品を見ることができて、そうして監督になったのがわれわれなんです。それに比べて今の若い監督の諸君が学ぼうとするのは近年のアメリカ映画の監督からと思えることが多い。もちろんすばらしい作品もあって、スコセージやデ・パルマやいろんな人がいるけれども、学ぶ相手として、インスピレーションを与えてくれるには、私は、ドライヤーやラング、グリフィス、ルノワールはもちろん、ロッセリーニたちのほうが、はるかに栄養があると思いますね。


©フランス映画社 本サイトの内容を無断で複製したり転載することはできません。 E-Mail:info@bowjapan.com