映画「ブロンド少女は過激に美しく」

マノエル・デ・オリヴェイラ 監督脚本作品 ブロンド少女は過激に美しく

妻にも友にも言えないような話は 見知らぬ人に話すべし

夕べを告げる鐘の音とともに 窓辺に姿を見せる少女 ・・・ 巨匠オリヴェイラ 100才の 過激に美しい傑作!

マノエル・デ・オリヴェイラ 監督脚本作品 ブロンド少女は過激に美しく


こちらの映画は、観る者に何を伝えるのか。
一言でまとめると、「恋の盲目さ」であろう。しかし、この映画の一番の魅力は、この「恋の盲目さ」だけでは表せない「何か」が映画全体にずっしりと横たわっている点であろう。

映画のあらすじそのものは、非常に単純なものである。
団扇をあおぐ少女に惚れた主人公・マカリオ。そして、その団扇をあおぐ美少女・ルイザ。マカリオは、ルイザに惚れてからというもの、人生のあらゆる重要な選択を、ルイザを起点に行うようになる。しかしながら、ルイザの過激な行動により、二人の恋は唐突に終わる。 この一連のエピソードを、マカリオが、列車の隣の席にいた見知らぬ女性に淡々と話す、という内容だ。

主人公マカリオは、とてつもなく盲目な男なのだ。男性たるもの、女性の見た目という表面的な美しさに惹かれ、すぐに恋に落ちる。動物的で、単純で、幼稚なマカリオは、その美しいルイザに心を奪われたのだ。妖艶なルイザに導かれるようにして、マカリオは、自ら波乱万丈な生涯への扉を開けてしまったのだ。男性とはなんと哀れな生き物なのだろう。そして、見事なまでに百年の恋も終わるような出来事により、マカリオは、目を覚ますのだ。映画を見終えたころには「恋の盲目さ」をひしひしと感じることだろう。

さて、「恋の盲目さ」は、現代でも往々にして存在する現象であるが、この映画における「恋の盲目さ」にはどこか美しさを感じることができる。恋に盲目になってしまうことが必ずしも悪い事ではない、美しい女性に翻弄され、人生をかき乱される、これもまた人生の醍醐味なのかもしれない、といった気持ちになるのだ。むしろ、「恋の盲目さ」により、美しい女性にとことん振り回されたい、というのは、男性という生き物の本望なのかもしれない。そしてその本望に、哀れさと、愛おしさをも感じる。

実は、この映画の監督であるマノエル・ド・オリヴェイラはなんと100歳の巨匠であった。「恋の盲目さ」における美しさの見事なまでの表現、これは人生の酸いも甘いも噛み分けた100歳の巨匠だからこそなせる業であったのだろう。

そして、映画のいたるところの細部の演出。これもまた観る者を虜にする。
「恋の盲目さ」を肯定するような演出の数々、例えば、美少女ルイザがあおぐ団扇の妖艶さや、彼女のまっすぐな眼差しから感じる色気などは、「恋に盲目になりたい」とまでも思わせる力を持つ。

そして、映画は驚くほどあっけなく終わる。なんとも尻すぼまりな映画なのだ。これでもなく、スパッと終わるラストに、妙な余韻が漂うのだ。

映画があっけなく終わったのちに、いや、恋に盲目になってもいいかもしれない、浮遊するような自由な生き方こそ人間のあるべき姿なのかもしれない、と思う一方で、恋の盲目の恐ろしさや、男性という生き物の哀れさ、私は哀れでない生き方をしたいという思いがこみ上げてくる。この感情のぶつかり合いこそが、監督マノエル・ド・オリヴェイラが私達に残したかったものなのかもしれない。