ゴダールに対して革命を起こそう!
■蓮實重彦氏トーク・イベント 抜粋レジュメ
[2002年8月24日(土)「JLG/自画像」上映後のユーロスペースにて]
●「JLG/自画像」の5つの光源
ご覧いただいたように、この映画は、5つの光源をもっています。おそらくそれが、この映画「JLG/自画像」のひとつの主題でもある〈見ること〉にもつながっているのです。
5つの光源とは、まず空。太陽そのものは出てきませんので、空が光源になっています。ある時期からゴダールの映画に空が出始めたことは皆さんご承知と思いますが、この映画の中では、“空”だけではなく“地面”も光源となっています。あるいは、地面の上に拡がっている水と考えてもいい。レマン湖の水であったり、名もない小さな川。その川が空を反射しつつ、ひとつの光源になっており、空が突然に曇って、その光源としての川、あるいは湖がほかの表情を見せるというようなこともあった。ゴダールが偉そうな格好をして水辺をとぼとぼ歩いていくところは、水面に拡がるその水が明らかに光源になっている、ということがよくおわかりいただけたと思います。まるで空と水がひとつになったような、そんな風景になっています。
いま申しあげた2つの光源は自然の光源です。それに対して人工の光源が3つあったと思います。ひとつはランプシェードです。絶対にランプを見せない。その代わり、赤やさまざまな色彩のランプシェードが室内の光源になっていて、これが、最近のゴダールを特徴づける大きな細部になっています。そしてもうひとつの光源は、ところどころに置かれている、ときどき何だか分からないイメージがそこに写ったりするビデオのモニターです。ランプという日常生活にもごく普通に使われる光源と、映画作家の家だからという意味で、奇妙なところにいろいろ置かれているテレビモニターの光源があり、その中間にマッチがある。ゴダールが自分自身の手でマッチを擦り、そしてその光で何か文字を書いている。これは読めないようになっています。マッチとそのマッチを軸にして、一方にランプシェードがあり、それから他方にビデオ、あるいはテレビがある。光源はほぼこの5つに限られていると見ていいと思います。
●ゴダールは鏡を恐れている?
では5つに限られたことによって、ゴダールは何を抑圧しているか。彼が袖を捲り上げて、白いシャツを見せて、「これは誰か」と助手の人に訊いて、「コクトー」と言わせているところがあります。多くの映画作家たちは、鏡を非常に見事な光源として使っている、あるいは使わざるを得ないし、また鏡がもっている現実を歪める力を大いに使っている。ゴダールが非常に好きなオーソン・ウェルズにしても、鏡を使っています。なぜ先ほどコクトーの話をしたかというと、コクトーにおいても鏡が光源として非常に強く作用していますが、なぜかゴダールには鏡が非常に少ない。鏡の上の反映ほど、ゴダールが恐いものはないのではないか。ゴダールはあんな顔していますから、何も恐くなさそうなのに、実は鏡を恐れているのではないか。「お前さん、鏡が撮れないで映画作家なのか。偉そうな顔するな」といつかゴダールに言ってやろうと、私は心の隅で思っていますが、絶対に言わないと思います。彼はいろいろ難癖をつけて、「俺にだって鏡はある」てなことを言い出すに決まっていますので。
「フレディ・ビュアシュへの手紙」の中で、緊急事態だという話があります。「緊急事態だ」と言って、ゴダールが、ハイウェーパトロールの人に向かって、彼が理解するはずのない“緊急事態”をやっています。「いまのこの光源はこの瞬間しかないから、それを撮るのが重要であり、したがっていまは緊急事態だ」と、さかんに言っています。やはり、空の光、光線が、ゴダールが、映画にとってかけがえのないものとしている一つの光源なのです。
●ジョン・フォードに近づいたゴダール
90年代に入ってから、ゴダールは、海辺、あるいは川のさざなみといったものを、もうひとつの光源としてとり入れはじめている。それが何を意味しているのか。実際に空を映す水を映画の中で最も見事に使った作家というのはジョン・フォードです。川の上を馬車や騎馬の一群が渡っていく、それを見事に撮った。私は仮に、近くゴダールに逢ったら、「あなたも、とうとうジョン・フォードに近づけたね、よしよし」と肩を撫でてやろうかと思っているくらい。あそこに馬が出てきたら、もうこれは西部劇です。ゴダールが単なる空ではない自然な光源として水を使い始めているということも、ひとつの大きな意味を持ち始めています。
光源としてランプシェードをきれいに撮ったり、ランプシェードを映画に活用することは、ゴダールが始めたことではないのですが、それを見事に自分自身のものにし始めたのが1980年代の終わりからここにかけてです。間接の光です。初期のゴダールは、実際の自然光だけを使って撮っていましたが、ランプシェードというものを映画の中に登場させることによって、ゴダールの映画が、本来はもっているはずのない、ある深みを持ち始めている。この映画ではそのモニターが二重化されていたり、暗黒の部屋の中で、チラチラと蛍のように光るという場面がいくつか出てまいります。これもこの映画の特徴と言っていいかもしれません。そして、マッチ。マッチで暗がりに一瞬のはかない光を添える。ゴダールはそんなことは意識していないと思いますが、映画史でこれをもっとも見事にやったのもジョン・フォードです。マッチを擦って消そうと思うとその前に最愛の女性がいる。この「わが谷は緑なりき」から最後の「リバティ・バランス射った男」まで通じている、ジョン・フォードによるマッチを擦る一瞬というもの。ゴダールがここでも無意識のうちに、あるいは意図せず、ジョン・フォードに近づきつつある。もちろんジョン・フォードのほうがゴダールより200倍くらい偉い人ですから、ゴダールは辛うじてそこに近づきつつある。そのことがはっきりと見えてきたことになります。
●ゴダールを信じてはいけない、ただしそこから何かをとれ!
そしておそらく皆さん方、奇妙な六角形を、彼自身の想像力の中ではまったく奇妙ではない、6つの頂点をもった星形をご覧になったと思います。ステレオの論理というものが20世紀の歴史を分節化しうるという、ゴダールならではの大胆な、そして、そうかと思えばそのようにも見えるけれども、ほかの理由を挙げればそのような立論はいつでも崩れてしまうような、2つの正三角形を重ね合わせたもの、あれも結局光源の論理で、1点光があると、あれは音ですが、それが拡がってきて、そしてこの正三角形になる。ところがこっちにも自分がいて、今度は下に頂点をおいた正三角形ができて、ユダヤの星に近づいているが実はそれだけではなくて、今日のイスラム問題にも絡んでいるという、ゴダールならではの、単純化することによって事態がわかりやすくなる。わかりやすくなるけれどもそれを真実と思ってはいけない。それにわれわれが批判をもっていろんな思考を巡らしたらば、さらに現実に対する深い理解が進むかもしれないという、あのゴダールの罠、「信じてはいけない、ただしそこから何かをとれ!」という、あのゴダール的な罠がやはり光源の問題として出てきていることにご注目いただければと思います。
ただし、ゴダールはどこかで、ある意味では太陽かもしれませんが、光源はひとつでそれが拡がるという考えを持っていて、それをヨーロッパの伝統的なプラトニズムと考えてもいいかもしれませんし、唯一無二の真実といった意味での形而上学と考えてもいいかもしれません。ゴダールはそのプラトニックな光源説を仮に信じた振りをして、あの2つの三角形を重ね合わせている。
しかし、光源はひとつではないのです。実際この映画でも、そもそもゴダールが複数なわけです。唯一無二の友人というのは彼自身であり、ゴダール自身が出ていながら、しかも彼の少年時代の映像というものをここでゴダールは初公開している。あれが最初に壁際に置かれていて、ひとつの光源として作用している。「私は喪に服した。人が死んだわけではないのに」と言っています。ゴダールに関しては、「その言葉は聞き留めよ。しかしそのことを深く信じてはいけない」というのがとるべき態度だと思っていますので、あの写真も本当は私には疑わしいのです。いろんな方が調べていただいてほんとに彼の写真らしいということはわかったのですけれども。
●ゴダールの同級生
そこで私は実証主義者ですから、少年時代のゴダールを知っている人にどうしても辿りつきたいと思っていました。そしたら、その人に逢ってしまったのです。映画とはまったく無縁のところで。私は去年まであるところで大学の学長というものをしておりましたが、ほかの国の大学の学長に見当をつけて、訊いてみました。すると、スイス連邦工科大学ローザンヌ校学長が、「俺はゴダールの同級生だった」と言うんです。「ほんと?」と言ったら「ほんと」と。「ゴダールってどんな人だった?」「変な奴だった。スポーツマンだった」と。ただし「彼が映画を撮るなんて、私は知らず、ひとり変な奴がクラスにいるなと思っていた」。あの写真のことは聞きませんでした。彼はこの映画を見ていませんから。しかし、「スイスのローザンヌ近郊の同じジムナジアム(リセ)でずっとゴダールのことを俺は観察していた。俺は物理工学系になったが、彼のやっていることは物理工学と同じではないか」と結構わかったようなことを工科大学長は言っておられました。「誰かいない?」ときいたら、その人が「ゴダールの同級生だった」ということを平気で言えるような世の中に私たちは生きているということが、私には面白いというか、奇妙な感じがしました。
彼はほかのこともいろいろしてきたわけなのに、それを一言喪に服すと言ってしまうようなゴダールの許しがたい狡さ、これをわれわれは信じてはいけない。信じたい方は信じてください。しかし私は、どこかで、信じてはいけないと思っています。何かをしないと、これだけゴダールの映画を見てきた私の自己同一性が自ら信頼できないわけです。そこでゴダールについていろんなことを考えたときに、問題は今言った一言に尽きます。「ゴダールの言葉は聞いてみよ。しかし、信頼するな。だからといって、ゴダールを嘘つきとは思うな」。その言葉は何らかの意味で私たちに現在を見るひとつの方向を示してくれるのではないか、あるいは自分で現在を見ていくひとつの力にしてしまえばいいのではないか、と私は思っております。
●ゴダール以後は映画は存在しない?
と、一応ゴダールを整理したという形になりますが、今晩これだけの方々がゴダールの映画を見においでいただいたように、やっぱりゴダールという、あの人騒がせな男は簡単に整理できない。なお、気になる存在として、われわれの周辺を旋回しているわけです。私としては、どっかでゴダールにギャフンと言わせないと気がすまないんですね。そう簡単にゴダール様というわけに行かないし、あるきっかけがあったらゴダールをギャフンと言わせてやりたい。あるんですね、その方法は。
ゴダールは喪に服したと先程言いましたが、自分より後に生まれた者は生存者とはみなさないということなんですね。彼は、この映画の中でも何人かの映画作家について語って、「映画史」の中でも何人かの映画作家について語っていますが、自分より後に生まれた映画作家に関するオマージュは一言として口にしない。映画の歴史というものは自分より前に生まれたものである。映画とは自分より年上のものである。それをゴダールは今に至るまでも信じた振りをしている。じゃあ、われわれというか、ここにいらっしゃる皆様はどうなるのか。私たちは映画との関係の中であなたの映画だって見ている。そのことをあんたはどう、あんたとは言いませんけれども(笑)、あなたは一体どう処理なさるお積りですかと、どっかでほんとに訊かなければいけない。
実は、1995年にロカルノ映画祭がゴダールの「映画史」を巡るシンポジウムを開きまして、私も招ばれたんです。ゴダールとの交渉に関しては語れば、あと1時間半くらいになりますけれども、それは置きまして。当時ロカルノ映画祭のディレクター、マルコ・ミュラーという男が、ゴダールに、彼以後に生まれた映画がいかにすばらしいかということを説得するための委員会を作って、私もアメリカのジョナサン・ローゼンバウムも選ばれて、説得にかかろうとしたら、ゴダールは口を噤んでしまうわけです。自分が生まれたより以降の映画作家が存在すると想定すると、彼が当時制作中だった「映画史」は全部崩れるわけです。今日この映画の中に響いてきたいくつかの作品、「最後の休暇」とか「大砂塵」、そういうものはみんな彼より年上の作家たちのものです。ボリス・バルネットにしてもそうです。
したがって、彼は恐ろしい虚構の上に立っている。それが彼を居直らせているわけです。それは、映画は俺とともに終わり、したがって、俺は映画の喪に服するという。じゃあ、侯孝賢はどうなるのか。ゴダールは、「うん、いいかもしらんが、知らん」とか、キアロスタミは、「名前くらいは入れてやろう」と彼は「映画史」の中にいる。青山真治はどうかというと、青山真治の方が、「そこまでは言わないでください」と多分逃げると思いますが。要するに、われわれは映画にとって不必要な人間なんです。ここにいる皆さんも、それから、私も。「そんなことはない」というのが、ゴダールに対して私がいまだに拘っている理由です。「お前さんは」お前さんとは言いませんが、「あなたは山中貞雄、知らないだろ。それで『映画史』撮っていいの?」ゴダールの虚構は、自分とともに映画は終わり、それ以後映画は存在しない、ということ。じゃあ、われわれは何を見ているのか。これは、ゴダールにとっての映画の反映が絶えずゴダールの映画のスクリーンに展開する。では、「あなたにとっての映画の現在は」と聞いてみると、「俺が現在なのだ」と彼は言うわけです。ある種の同語反復をずっと繰り返している。そしてその同語反復に人々はある程度従順だった。
●ゴダールに対して革命を起こそう
私はやはりゴダールに対して革命を起こすべき時代が来ていると思います。どういう革命か。誰もゴダールを見に行かない。これはひとつかもしれません。それから、ゴダールが信じられないほどゴダールの映画を当ててしまう。ゴダール暗殺もあり得ます。ゴダールはわれわれをあからさまに無視しています。ここにいらっしゃる皆さんにアジりたい。そんなゴダールを許していいものでしょうか。
しかし映画というものは、赦す、赦さないといった世界を越えた楽天的なところがありますから、ゴダールは赦してしまっている。しかし、堪忍袋の緒が切れることもあるわけで、私そろそろそこに来ているんです。どうか皆様方も自堕落にゴダールが存在していることを容認するのではなくて、今日ご覧になった映画を面白いとか嫌いとかとは違う形で処理していただきたい。個人で処理すると革命の力にはならない。ですから、誰でもいいから「この映画をぜひ見て」と言っていただいて、より多くの方々が孤独にではなくゴダールを処理していただきたい。「キングダム・オブ・フランス」と言っている彼はやっぱりキングなんですから、このキングをどう処理するか。彼が「わかりました」と言って正座して手をつくまで、このような活動をしていかなければいけないというのが、私の強い確信でございます。反ゴダールの、ゴダールに対する革命、どうか皆様方のお力を拝借したいと思っています。明日から3人、4人、5人とお知り合いの方を連れてユーロスペースに来て、毎晩このようにたくさんの方がこの映画を見ていただければ、私としてはゴダールに対する無念が晴れます。どうぞよろしくお願い申しあげます。
copyright(C) 2002 Shiguehiko Hasumi
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