エレニの旅
地に降る涙のように
テオ・アンゲロプロス
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「エレニの旅」について
トリロジー
「エレニの旅」はこれまでの私の映画と異なる映画だが共通する点も多い。線として物語る話法はテーマからきている。当初に構想したのは、テーバイ神話の<オイディプス王>、<テーバイを攻める七将>(*)、<アンティゴーネ>から想を得た、<トリロジア>という題名になったであろう映画だった。しかしそれを1本の映画にするのは、長さの点で根本的に無理だった。4時間を超えることは間違いなく、製作面で困難が大きすぎるばかりでなく、作っていくうちに、この要素あの要素をもっとふくらませたいと思っても、時間的な余地がないからそうした要素を窒息させてしまう、そうした懸念が最初からあった。フィクションとして物語展開を救う方法はあるものの、フォルムそのものも変わってしまうだろう。そうしたことを検討した結果、私と製作者たちとで、三部作を3本の独立した映画として作ることに決定した。三部作という概念、そしてテーバイ神話への関連は守りながら、と切りかえた。
アイスキュロス作のオイディプス王の二子の争いと死を描いた劇詩。
エレニ
映画の中心人物はエレニだ。彼女がオデッサからの難民として、別なギリシャ人難民一家と一緒に来るところから物語は始まる。当然、彼女個人の物語が当時のギリシャの歴史的政治的な背景を映すことになるのはわかっていただけよう。エレニは、難民の、追放された者の、放浪する者の、持たざる者の、肉体化した姿だ。幼くしてオデッサから追放され、独りで港で泣いているところを、ギリシャ人家族に拾われ、迎えられる。彼女の存在は、住むべき家や暮らすべき家がないことに決定づけられている。一つの世紀にわたって次から次に根を奪われつづけ、泊まるべき港、縋れるよすがを求めつづけ、慈悲のない運命を生きていく人間だ。

「永遠と一日」(98)をつくった後、20世紀の終わりが迫っていることを切実に感じた。世紀の終わりについて、あるいは20世紀という一つの世紀全体をみつめる映画をつくりたいという欲望にかられた。一つの世紀が終わるということ。もちろんこれまでの私の映画で世紀というとらえ方をしたことは、1900年の日の出から始まる「アレクサンダー大王」や、20世紀の終わりを予感する「こうのとり、たちずさんで」があり、ほとんどどの映画にも20世紀の歴史が流れている。しかしカメラを正面から20世紀そのものに据えて、それを一人の女性の視点で、その数々の大きな事件を生きた女性の物語として描く、しかも、中心テーマをギリシャ人難民に据え、<家>の不在、歴史にふりまわされて移動する人を描く、これは私にとって新しい挑戦だった。
20世紀と母へのオマージュの映画
20世紀というのは私の世紀でもあり、私の母の世紀でもあった。母は1998年に、カンヌ映画祭で「永遠と一日」を上映した3ヵ月後になくなった。「エレニの旅」で描かれる愛と悲しみ、歴史の激動は、私の母が実際に生きたものだ。
難民とオデッセー
難民というテーマに常にたち戻ってしまう。これは、アイデンティティーを探り、アイデンティティーを知るということと深くつながっているのだろう。私自身は、家に帰る途上で自分が持つものをなくしていく人間のように感じている。その感情は、「こうのとり、たちずさんで」にあらわれて「ユリシーズの瞳」でも繰りかえされたセリフに完全に言いあらわされていると思う。《いくつもの国境を越えたが、私たちはまだここにいる。我が家に帰り着くまでに、いくつの国境を越えなければならないのだろう?》
そのいっぽう、私は、形はさまざまに異なっていても、オデッセーの話を繰りかえしている。ホメロスが<オデュッセイア>で語っているさまざまな物語。旅が基本にあり、旅から始まるという意味ではホメロスと同じだが、しかし、旅は終わらない。我が家に帰り着いて終わることがない。実際のところ、ユリシーズはイタケにとどまりはしなかった。ユリシーズは再び出発してアイトリアのどこかで、家なく死んだというのが、神話で伝えられているところだ。神話での終わりは、ホメロスのほど幸せではなかった。

一つの物語が自らを繰りかえす。追放があり、個人の歴史があり、社会との相克があり、新たな出発や、どこへとも知れぬ逃避行がある。どの出発にもひとつひとつ違う意味がある。つかまる杭はない。均衡が得られず、出発し、また出発する。ひとつの愛が一つの家族を文字通り破壊する。絶対なるものを破壊する。絶対とは、古人が言ったように、挑戦にほかならず、挑戦とはトラウマを産むもの、そしてトラウマは災厄を残す。そうした意味で、「エレニの旅」はギリシャ悲劇だ。
「エレニの旅」の撮影
撮影にはテサロニキに長期にわたって腰をすえたが、オープン・セットの建造は難題だった。
ケルキニ湖の岸辺に難民の村を建造し、さらに大きな村をテサロニキ港に建造した。物語の当時の面影を残す建物は今はどこを探してもほとんどなく、これが大きな問題だった。1930年代のギリシャの姿は、テサロニキに限らず、どこでもほとんど完全に消滅している。テサロニキにはかろうじて当時のすばらしい家屋が残っているが、それとて、後から建て増しした異様にモダンなものと合体している。30年代を再現する場所をみつけだすのは容易でなかったし、まして、30年代のギリシャの田舎の風景など、もはやどこにもない。
そのため、ウクライナや旧ソ連のあちこちにロケハンに行った。ウズベキスタンを通っていたときに、ステップを見た。それまではっきり意識していたわけではなかったが、ステップにかこまれた村、砂漠のような空間のなかにぽつりと村がある、そんなイメージが浮かんであちこち探して旅を続けたが、実在の場所では見つからなかった。
そのうえ、河もなければならない。映画の村(<ニューオデッサ>)には、河や水との特別な関係があるからだが、それがステップのなかに存在するとなると、これは見つかるわけがない。結局たどりついたのは、湖だ。冬には水が引く湖。なにもない湖底にステップをつくり、そこから映画が始まる。
ということで村造りがありとあらゆる方法で始まった。家屋を百軒、ほんものの建材で造り、あらかじめつくった村の地図に沿っていくつもの街路を造り、教会を造り、学校を造り、すべてを造った。一つの村全体を造ったが、これはギリシャ映画では史上最大のセットだと思う。

もう一つの、テサロニキの港に造った村(<白布の丘>)はさらに強烈な作業だった。広い港なので、ケルキニ湖よりも面積がいっそうある。最終的に200軒の家を造ったが、最初はもっとシンプルな考えだった。難民キャンプの小さな家が50軒か60軒というつもりだったが、丘の坂道から高台の上にまで、どんどん建てていって、全体が円形劇場のような壮観でできあがった。
そうしてできあがった村で、人々が実際に生活しはじめ、夜は家々で眠り、昼間は日常の会話をかわし、子供たちが走りまわるのを見たときには、これはほんものだと満足した。
<ニューオデッサ>の村は今は水に沈んでいる。水が上がってきて家々が沈んでしまうその直前、ぎりぎりの時間でラストシーンを撮ることができた。大半の家は水の侵食で今はもうなくなってしまったが、われわれが植えた木だけは、今でも映画の姿で残っている。教会の尖塔もまだ見える。


(オリジナル・プレスブック、および、モントリオール映画祭でのリュック・ペローによる<第七芸術のプルースト>と題するインタビユーより、HS抄訳)
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