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始まりは1976年でした。それまでフランス映画社は「絞死刑」など大島渚監督作品を中心に日本の独立プロの映画の輸出に専念していたのですが、76年に「愛のコリーダ」の合作プロデュースを果たして、今度は外国映画の日本への紹介をはじめることになり、その最初は、ジャン・ヴィゴ監督の「新学期・操行ゼロ」とメルヴィル監督・コクトー原作の「恐るべき子供たち」の同時上映で、場所は、当時まだ映画をときおり上映するだけだった三百人劇場でした。 BOWというのは、ベスト(Best)、オブ(Of)、ザ、ワールド(World)の頭文字を勝手に組み合わせたネーミングでしたが、そんなベストの映画は世界中で眠っていて発見されるのを待っている、飛行機でさっと運んで来ることはできなくても、ゆっくりと舟でなら必ずやってくるという思いから、ロゴ・マークには、舟の舳先が入っています。いらい30年、バウ・シリーズで上映した作品は160本を超え、80人近くの監督が登場しています。
70年代にはまったくありませんでした。今では想像できないほどです。60年代には、日本アート・シアター・ギルド(ATG)が活発で、劇場としても、配給活動でも、日本映画の製作でも、世界中の注目を浴びるほどの活躍だったのですが、70年代にそれが途切れました。バウ・シリーズは、ATGの活動の一部分であった、外国映画の監督中心の配給を少しでももりかえそうという動きでした。
ほとんどありませんでした。今は東京だけでなく、監督を作家として特集上映を組む劇場や上映グループは、交通の発達もあって、探せば身のまわりにありますよね。宮崎駿監督、北野武監督をはじめ、監督さんの名前でお客様が映画館に動いてくださる雰囲気がありますが、70年代の当時は、監督が作家であるとアッピールする動きは今より弱かったですね。
「歌う女・歌わない女」で来日してくれたアニエス・ヴァルダ監督が<BOW>で来日の最初の監督でしたが、最近の「エレニの旅」まで新作のたびに来日してくれているアンゲロプロス監督、ヴェンダース監督、ジャームッシュ監督、エリセ監督、タヴィアーニ兄弟監督、ベルトルッチ監督、侯孝賢監督、カンピオン監督、ヴァン・ドルマル監督、オリヴェイラ監督、ハートリー監督、クラピッシュ監督、アントニオーニ監督、マイク・リー監督、シャヒーン監督、サミラ・マフマルバフ監督、スレイマン監督・・・。そしてジャームッシュと一緒に「デッドマン」で来日したジョニー・デップも。どの監督も封切劇場を訪れて我が家をみつけたように喜んでくれます。シャンテシネは、どの監督も、文句なしにお気に入りです。
ヴェンダース監督と奥さんの写真家ドナータとが、「東京物語」の出発点である尾道に旅して撮影した、すばらしい写真の数々が誕生しました。その写真展で来日した最後の日に、ヴェンダースとドナータは北鎌倉の小津安二郎監督のお墓に詣でて、お花とお酒を小津監督に献じて、すばらしい一日をすごしましたよ。 その帰路、東京に戻る鈍行の電車のなかで、ヴェンダース監督がとんでもないことを思いついたのです。 <バウ>の30人の監督へのオマージュである「BOW30映画祭」の企画を、ヴェンダース監督は100%賛成だと喜んでくれ、(しかし、今回の上映に入っていない監督たちに悪いではないか、この続きもやるべきだと批判もしつつ)、パズルのようなことをやり始めたのです。 そのパズルが何であったか。 実に美しい、30色以上を使った、カリグラフィーによる絵でした。 「BOW30映画祭」の期間中にシャンテシネでその原画が展示されますので、どうぞご覧ください。 |
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